興福寺(こうふくじ)(奈良県奈良市)
- 弓長金参
- 2023年10月6日
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更新日:2024年6月26日
興福寺は藤原氏の「氏寺(うじでら)」です。
奈良時代から権勢をほこった藤原氏は、一族の繁栄を願い“My寺院”を建立します。これが興福寺の始まりです。
隣接する春日大社は藤原氏の「氏社(うじやしろ)」で、藤原氏の“My神社”です。
藤原氏は「仏教」と「神道(しんとう)」ともに、これら大型の宗教施設を維持・管理してきました。

興福寺の前身は飛鳥時代の天智8年(669)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の病平癒(へいゆ)を願い、夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が京都の山科(やましな)の地に建てた「山階寺(やましなでら)」です。
平城京遷都に合わせ、現在の地に移設しました。
奈良・平安時代は藤原氏の隆盛とともに、寺勢もあがり、当時を代表する大寺院として京都・奈良地方に君臨しました。隣接する春日大社も一元管理しました。

鎌倉時代以降、パトロンの藤原氏を代表する宮廷貴族の没落をしり目に、京都付近の大和国(やまとのくに)に広大な荘園をゆうし、実質、大和国の君主として統治しました。
律令国家から宮廷貴族の興隆、武家の台頭と宮廷貴族の没落と、時代が変遷しても寺勢を維持しつづけた興福寺ですが、ターニングポイントがおとずれます。

明治元年(1868)の「神仏分離令」により、明治政府は全国の寺院を弾圧しました。
藤原氏の氏寺である興福寺も例外ではなく、一気に衰退します。
隣接する春日大社は、かんぜんに興福寺の管理から離れました。現在も規模が大きめの寺院ですが、かつての大伽藍と比べると、どうしても一抹のさびしさを感じます。

奈良時代作「阿修羅(あしゅら)像」など、あまたの国宝・重要文化財を、かつて大和に君臨した大寺院の“夢のあと”として所蔵しています。