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水城(みずき)跡(福岡県太宰府市)

  • 執筆者の写真: 弓長金参
    弓長金参
  • 2023年9月15日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年6月28日

 飛鳥時代の天智3年(664)に築いた「水城(みずき)」跡です。

 読んで字のごとく水の城です。前方に堤防を築いて水をため、その貯水池で前方の攻撃を防ぎます。原理としては単純ですが、堤防の長さは約1.2キロ、幅約80メートル、高さ約9メートルの巨大な長城です。しかも幅約60メートルの外濠も設けました。

 水城の北東に「大野城」、南東に「小水城」なども築き、この水城を援護する支城(しじょう)とするなどかなり大規模な軍事施設です。

 この巨大な軍事施設の建造には、当時の歴史的背景が関係しました。

 660年、朝鮮半島南部を拠点とする百済(くだら)王朝が隣接する新羅(しらぎ)王朝に滅ぼされ、朝鮮半島は新羅王朝により統一されました。

 古来より大和朝廷と関係の深い百済王朝の復興を目指し、新羅王朝が統治する朝鮮半島へ海外遠征をしますが、天智2年(663)、朝鮮半島西部の沖合いで敗戦します。「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」です。

 敗戦した日本は攻められる立場となり、日本西部各地に城を築きました。

 大陸から最前線の筑前国(ちくぜんのくに)を守るために造られたのが、この水城です。

 幸いその後、日本が攻められることはなく、水城の施設を流用し九州を統括する「大宰府(だざいふ)」が創られました。大宰府は九州9か国を統括する機関であり、大陸との対外交渉の窓口にもなりました。

 大宰府のトップ「大宰帥(だざいのそち)」は、当時の政府有力者のなかで五本の指に入るほどの人物が任命されるなど、古代日本にとって実質的に副都として機能します。

 歴史の流れとともに水城や大宰府は徐々に朽ち果て、のどかな田園と同化しました。

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