自覚のないマリオネット:新聞は剣よりも強し
- 弓長金参
- 2022年12月30日
- 読了時間: 4分
更新日:1月25日
現在、強固に構築されたネット社会により、一瞬にして情報が広まり、根強く人びとの記憶に刻まれます。
ごく平凡な一般人が趣味の動画や記事をネットにアップし、ふとしたきっかけでその分野のプロ顔負けに注目され、結果、多額の報酬を得る事象も多くあります。

一方で、実態はともかく“イメージ”先行で社会に広まり実害を受ける、いわゆる「風評被害」も珍しくありません。その情報は「デジタルタトゥー」として、ネット上で半永久的に残るようになりました。
昨今、ネット社会のメリット・デメリットが顕在化していると言えます。
社会を席巻(せっけん)しているネット媒体の前は、「テレビ」主流で世のなかに影響を及ぼしました。その前は「ラジオ」、さらに前は「新聞」となります。
江戸時代には時事を簡略にまとめた「かわら版」が普及し、宣伝媒体となりました。新聞の元祖です。
これらの宣伝媒体を通して、人びとは多少なりともイメージ操作の影響を受けてしまいます。

幕末から明治時代にかけ、逐次近代的な新聞が発行されます。
人びとに最新のニュースを届けるとともに、世論イメージを植えつける媒体となりました。
大事件があれば、事件を知ろうと新聞が売れます。新聞を売るため、読者受けするように新聞各社も工夫します。記事に挿絵を描くのもそのひとつです。
明治初期は、少し前まで“江戸時代”でした。挿絵を描くのも江戸時代から続く「浮世絵師」が担当しました。

明治27年(1894)、朝鮮半島の主権をめぐり、清王朝と「日清戦争」が勃発します。
当然大事件として、日々の戦況を伝えようと新聞記者も軍隊に同行します。新聞に挿絵を描く浮世絵師も「従軍画家」として、戦場を渡り歩きました。
刻々と変化する現場の戦況を、新聞は毎日報道します。
戦争の成り行きを見守る日本の人びとも、競って新聞を購入し、戦況を注視しました。
その戦況を視覚的に分かりやすく説明するため活躍したのが、従軍画家です。浮世絵師が描く臨場感ある戦闘シーンは、新聞の読者に多大な影響を与えました。

ここでポイントなのが従軍画家の挿絵は、“主観的”に描いたことです。
日本人の読者は、“日本軍の快進撃”を期待して新聞を購読します。
実際の戦場では、日本軍と清王朝軍の一進一退の激戦が続きます。
清王朝軍は欧米列強から最新兵器を購入し、近代軍隊としての体裁を十分保っていました。当然、日本軍にも多数の戦死者が出ており、従軍画家も目の当たりにしているはずです。
しかし従軍画家は、意図的に“日本軍の連戦連勝”“清王朝軍恐るるに足らぬ”と、かなりデフォルメして描きました。
清王朝軍の装備をヤリや弓矢とし、軍服も前近代的なものにします。
整然と隊列を組むいかにも近代軍隊然の日本軍から一斉射撃され、慌てふためき逃げまどう、そのような挿絵を描きました。その方が読者である日本人の受けがよいからです。

翌明治28年(1895)に日清戦争は終結します。
日本の勝利となりました。
主たる原因は、社会全体の近代化が進み、進取の気性に富む日本の勢いもさることながら、清王朝は戦争中も宮廷の有力者同士の権力争いが続き、国力を集中運営できなかった点も大きく影響しました。
しかし、日々新聞で戦況を見守り、挿絵のイメージがついた人びとに、「日本軍の無敵神話」の萌芽が生まれました。

人びとのイメージに迎合した新聞がよく売れるため、新聞各社は日本軍の無敵神話を増長する記事を掲載します。すると人びとにより一層、日本軍の無敵神話が植えつけられる、というループができ上がります。
その結果、反戦論調を書けば読者に非難されるため、書きづらくなる雰囲気が醸成されていきます。

分かりやすい「挿絵」や「写真」「動画」ほど、作り手の意図が反映されやすい“主観的”な創造物で“真実の片面”に過ぎず、全体を俯瞰したものではありません。
閲覧者もこれらの事物を見るときは、“客観視”する姿勢が求められるのです。