美的感覚の輸出──グローバル化する日本の伝統美術──
- 弓長金参
- 2023年1月30日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年12月11日
19世紀末、明治新政府の開国政策で、日本の伝統美術・工芸品が多数ヨーロッパに渡りました。
従来の伝統技法に則(のっと)らず、現代絵画の風潮が芽生えつつあったヨーロッパ画壇に、日本独自の作風は多大な影響を与えました。
ヨーロッパで日本文化のブーム「ジャポニズム」が起きます。

ジャポニズムの代表的な媒体は「浮世絵」です。
浮世絵がヨーロッパに渡った経緯のひとつは、日本の陶磁器輸出と関係しました。
当時、日本で製造した陶磁器は、船に積みヨーロッパへ運びます。
当然割れやすいものですから、梱包しなければなりません。そのとき梱包材として使ったのが浮世絵です。
版木(はんぎ)で量産する浮世絵は、貴重な美術品というより、庶民が愛(め)でる安価なポスターやチラシの感覚で、見飽きれば紙くずとして捨てます。
紙くずである浮世絵で陶磁器を包み、陶磁器とともにヨーロッパへ渡ったのです。

日本では紙くずとなった浮世絵の画風は、ヨーロッパ人画家に衝撃を与えました。
従来のヨーロッパ画壇では、近くのものを大きく、遠くのものを小さく描き奥行きを出す「遠近法」や、影の濃淡で立体的に見せる「陰影法」などの技法を使い、二次元のキャンバスをいかに立体的、且つ写実的に見せるか腐心してきました。

浮世絵の画法はその遠近法を無視するか、反対に過度に誇張しています。
色彩もベタ塗りの鮮やかな描き方で、ヨーロッパ人画家には斬新に映ったのです。
ゴッホやゴーギャンら、奥行きをなくしたベタ塗りの画風に浮世絵の影響が伺(うかが)えますし、ピカソを代表とする「キュビズム」の先駆者セザンヌにも影響を与えました。

このように平和裏に、日本の美術・工芸品をヨーロッパに紹介するのとは反対に、極めて政治的な背景でヨーロッパに多量の美術・工芸品が渡った時期がありました。
明治元年(1868)に始まる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」のときです。

新政府は京都にいる明治天皇を神輿(みこし)に担ぎ、統治の正当性を示すシンボルとします。天皇家は神道(しんとう)の宗家ですから、神道を国教にしようと考えました。
その反動で、全国津々浦々に存在する仏教寺院は、迫害のターゲットとなります。
日本の歴史を通して、仏教は常に宗教界のトップに君臨し、政治権力や富を牛耳ってきました。
勢力が劣る神道は、劣勢挽回に好んで寺院境内に自社の社(やしろ)を移設したため、江戸時代以前の寺院境内には、神社の社も併存していることがよくありました。

新政府は、まず寺院と神社をきっちり分けることにします。
国教である神社は優遇しますが、寺院は一方的に迫害を受けました。
江戸時代、全国民の戸籍管理の意味合いから、江戸幕府は「檀家制度(だんかせいど)」を推進し、寺院を優遇します。
僧侶はある意味で幕府役人の側面も持つ特権階級と化し、それゆえ腐敗も進行しました。
そのような大衆の寺院や僧侶に対する反感も、廃仏毀釈の後押しとなり、活動は過熱化しました。

各寺院は荒らされ、昔から伝わる仏像や仏画などの寺宝が、二束三文で売り払われます。
一方、ジャポニズムで日本文化に興味を持ったヨーロッパ人は、それらの寺宝を買い取り、自国へと持ち帰りました。
現在もヨーロッパ各国の美術・博物館に陳列する日本の寺宝には、このとき海外へ流出したものが多く混在しているのです。