田丸城跡(三重県度会郡玉城町)
- 弓長金参
- 2023年5月13日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年7月17日
田丸城は“続日本100名城”に選ばれた城です。
公益財団法人「日本城郭協会」が、設立40周年記念に“日本100名城”を選定し、10年後、50周年を記念し、続いて“続日本100名城”を選定しました。
田丸城もそのとき選ばれた名城のひとつです。

田丸城天守跡
田丸城の歴史は南北朝時代まで遡(さかのぼ)ります。
当時伊勢(三重県)の中南部を支配した北畠(きたばたけ)氏の支城として1336年にできました。
戦国時代末まで約250年間に渡り当地で勢力を維持した、異色の戦国大名・北畠氏が興ります。

平安時代中期の第62代村上天皇の孫・師房(もろふさ)が臣籍降下し源姓を名乗り、村上源氏となります。武家の名門・清和源氏と違い、宮廷貴族として活躍します。
その分家が北畠氏です。南北朝時代、南朝の重臣・北畠親房(きたばたけちかふさ)が伊勢北畠氏の始祖になります。

宮廷貴族出身ながら北畠氏は伊勢で勢力を拡大し、戦国時代まで伊勢国司に就きます。
下剋上の世、藤原氏は元より天皇家すら零落するなか、軍事力を高め戦国大名化しました。
戦国時代末期、勢力を拡大する織田信長は、伊勢や伊賀(三重県西部)に侵攻しました。北畠氏は信長に抗せず、1569年に和議を結びます。

和議の結果、北畠氏が存続する代わり、信長の次男・信雄(のぶかつ)を北畠氏の当主にします。
戦国大名が他の大名家を取り込むとき、よく使う手です。
力押しすれば損害が出るとき、妥協案で大名家・家名は残しますが、当主をすげ替えます。
会社・社名は残すが、社長以下役員を買収する側の会社から派遣し、実質子会社化する現在のM&Aと同じです。
田丸城は信雄の時代、大改修し三重の「天守」を建てます。

本格的な天守が現れるのは1576年、滋賀県にある安土城からです。
城の代名詞・天守は、これ以降全国に普及しました。田丸城の天守は安土城と同時期で、極初期の天守と言えます。
天守は城の司令塔です。
攻められたとき、天守から攻防状況を把握し、兵士を指揮します。天下泰平の江戸時代、全国の各藩は、自藩の城に天守を当り前のように造りました。

田丸城天守跡からの眺望
しかし実際は使用されず、シンボルタワー化します。
戦がないからではありません。
江戸時代の藩主はいつ起きて寝るか、その日なにをするか、万事規則に則(のっと)ります。
藩主が勝手に動けば江戸幕府の法令『武家諸法度(ぶけしょはっと)』に違反し、廃藩処分の可能性もあります。
江戸時代の藩主は、いわばサラリーマン社長です。
藩主という役職を律儀に務める、一介の武士とも言えます。

藩主が天守に登るのは、将軍名代の幕使が来藩するときぐらいです。
天守の最上階で、藩主は幕使を迎えます。多い藩主で年に数回、なかには一度も登ることがなかった藩主もいます。
晴れた日に天守から城下町を眺めるのは、フィクションです。
そもそも天守は有事の際の司令塔であり、昇り降りも大変で部屋も質素です。当然、藩主も天守で寝泊まりしません。
例外は織田信長です。
安土城の天守に、中国の故事や偉人などを描いた豪華な襖絵を作りました。信長は実際に天守で生活をした、ただ一人の大名です。

実際、安土城は“城”というよりは、豪華な屋敷です。京都市の二条城が“城”とついても、実際は屋敷であるのと同様、大名などを接待し、自身の権力を見せつけるのが目的です。
田丸城城主は豊臣秀吉の時代に、再び北畠氏一族が城主となりますが、関ヶ原で石田三成の西軍に組したことで追放されます。
以降短期間に大名数家が入れ替わり城主となった後、1619年、紀州徳川家領になります。その後は紀州徳川家の家老が城主を務めました。

実際は家老の代理が城主として田丸城の城下町を支配し、明治維新を迎えます。
廃藩置県後の1928年、朝日新聞社を興した地元出身の村山龍平が買い取り、田丸町に田丸城を寄付しました。以降町が城主として管理しています。