桑名市博物館(三重県桑名市)
- 弓長金参
- 2023年5月13日
- 読了時間: 4分
更新日:7月27日
蛤(はまぐり)で有名な当地にある、1時間ほどで観覧できる規模の博物館です。

桑名市博物館全景
2022年5月現在、刀剣で有名な村正(むらまさ)の企画展を開催しています。
かつてこの地は、江戸時代後期に寛政(かんせい)の改革を主導した老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)の嫡男が桑名藩主であったことから、定期的に定信公ゆかりの品の展示もしています。

この博物館の売りである村正には、面白いエピソードがあります。
メリットもデメリットもあるとき「もろ刃の剣」と言います。
“諸刃”“両刃”と書きますが、“馬から落馬した”に代表される重言(じゅうげん)です。両刃の武器が「剣」、剣ならば両刃、片刃なら「刀」になります。

古代では剣がメジャーでしたが、平安時代中期に戦のプロ・武士が登場します。
武士は馬上で使い勝手のよい湾曲形状の片刃の刀器・太刀(たち)を使用しました。
柄を持ち、腰を右にひねれば刀が抜け、振り回しやすい。外国の騎馬民族と同様に、三日月形の太刀が普及します。
室町時代になるとアマチュア武士・足軽が増え、訓練が必要な切る動作より単純な、刺す動作専用に刃が直線形状へ変化します。
指揮する武士も戦場で馬から降り歩兵となるため、この直線形状の刀器・刀が一般的に普及しました。

太刀と刀は、刀掛けの置き方で区別できます。
太刀は刃を下、刀は刃を上に置きます。
襲われたとき太刀は下から上に切り上げ、刀は上から下に切り下げた方がすばやく反撃できるため、この置き方が定着しました。

戦国時代になると刀器製造が盛んになります。
刀工は刀器工房で腕を磨き、独立して自らの工房を建て、独自の銘(ブランド)を確立します。
「村正」の銘もそのひとつです。
16世紀前半に活躍した千子村正(せんごむらまさ)は、桑名の地に自身の刀剣工房を建て、村正ブランドを立ち上げます。

見るだけで血が出ると評判の刃の鋭さ、一級の芸術品ともいえる刀身の美しさに、当時の武士のなかでファンは急増。
レジェンド刀工の技は後継者に受け継がれ、戦国の世で人気ブランドへと成長します。
名門ブランドの地位を確立した村正は数十年後、思いがけないケチがつきます。
16世紀前半、三河(愛知県)西部の豪族・松平氏に清康(きよやす)と言う青年武将が当主になります。
戦上手な清康は勢力を拡大、三河の覇者となり近隣諸国に武名をとどろかせますが、25歳で家臣に暗殺されます。
次いで息子・広忠(ひろただ)が当主となりますが、24歳で同じく家臣に暗殺されました。

“三河統一目前”と言われた松平氏は衰退。若き当主がともに暗殺、そして凶器がともに“メイドイン・村正”とのうわさが流れました。
村正人気の証左ですが、広忠の8歳の息子・竹千代(たけちよ)が当主になったことが、村正に禍根を残します。
竹千代はのちに徳川家康と名を改め、天下人となりました。
「神君(しんくん)家康公のご先祖を殺めた村正」
「徳川家に仇なす村正」
とのうわさが流れます。
あまりの切れ味、美しくも妖しい刀身は人を狂気にかりたてる。ゆえに家臣は主君を暗殺した。村正は“見るものを狂わす妖刀”との都市伝説が広まります。

都市伝説が広まるには、ふたつの条件が必要です。
対象が有名であることと、説得力があることです。
「村正ならさもありなん」
「たしかに魅入られそうじゃ」
と、高い知名度と抜群のクオリティにだれもが納得しました。都市伝説は定着し、名門ブランドは有名税を払わされます。
反面、当時も村正の都市伝説を本気で信じていません。
当の徳川家も平気で村正銘の刀器を多数所有していますが、大名や武士は徳川家に遠慮し、村正を敬遠する雰囲気もできます。
“切り捨てご免”は、武士の優位性を表したキャッチコピーにすぎません。
幕府も各藩も安定した領地運営のため、戦国乱世の気風を徹底的に取りしまります。武士が人前で刀をぬいても処罰しました。

一方で領民への威厳を保つため、外出時の帯刀は必須です。
「両刃の剣」から姿を変えた「片刃の刀」は、「武器」から身分を表わす「装飾品(アクセサリー)」へと役割も変わります。
それでも“普段身につけ愛用するなら、やはり村正がよい”、と考え出されたのが、村正の銘を削る。

同博物館所蔵の村正銘の太刀
刀身の銘をヤスリで削り、表向き「無銘(むめい)」にすれば、正々堂々と村正を差して外出できます。村正ファンも考えたものです。
村正工房は殺傷目的の道具を製造・販売するいわば軍事産業です。「妖刀」の風評被害も、製品のクオリティを保証する「美名」となりました。


