匿名希望。名前は名乗れません:字の役割
- 弓長金参
- 2022年7月19日
- 読了時間: 3分
更新日:4月14日
三国志に登場するたくさんの英雄たち。
その名前はときに「諸葛亮(しょかつりょう)」、ときに「諸葛孔明(しょかつこうめい)」と統一していません。

“諸葛”は姓で、“亮”が名前です。では“孔明”は何でしょう。
孔明は「字(あざな)」です。中国では成人すると、この字をつける風習がありました。
現在では名前は極端に言えば、単なる識別記号です。
一方、古代中国では名前には、本人の魂が宿ると考え、安易に口にすることは禁忌(きんき)としました。名前を呼べるのは君主や両親など、本人より立場が上の人のみ。それ以外の人が本名を言うことは失礼と考えました。
姓のみでは同姓者が多数おり、生活に不便です。
そこで名前の代わりに成人したとき、字をつけました。男子は20歳、女子は15歳で成人式を迎え、字が付与されます。

紀元前17世紀の殷とも言う商(しょう)王朝から始まり、紀元前11世紀の周(しゅう)王朝から広まりました。
そのため『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では、諸葛亮に好意を持つ人は“諸葛孔明”と呼び、敵将などは侮蔑を込め“諸葛亮”と呼んでいます。

日本にも字の風習は伝わり、菅原道真(すがわらのみちざね)や新井白石(あらいはくせき)などの漢学者や儒学者が好んで字をつけましたが、中国ほど一般化していません。
代わりに日本では「輩行名(はいこうめい)」の風習が普及しました。
長男なら“太郎”、次男なら“次郎”です。姓が田中なら「田中太郎」「田中次郎」と呼びました。それでも同姓同名者が多そうです。
そこで父親と本人が、それぞれ何番目の男子かで組み合わせを作ります。
例えば父親が“次男”で本人が“長男”であれば、「田中次郎太郎」となります。親子ともに“長男”であれば「小太郎」や「又太郎」となります。
かなりバリエーションが広がり、関係者レベルであれば識別可能です。

日本でも中国でも、古来より本名を明かすことを避けてきました。
逆に言うと、本名を伝えることは、相手に心を開いたことを意味しました。
古代日本で女性が本名を明かすことは、求婚を受け入れた証拠とされ、『万葉集(まんようしゅう)』には、求婚する娘へ本名を尋ねる、若者の歌を多数収集しています。

女性も本名を隠したゆえ、本名が記録に残らなくなりました。
だれもが知る清少納言(せいしょうなごん)や紫式部(むらさきしきぶ)は「女房名(にょうぼうな)」で、本名ではありません。

史料から清少納言は清原(きよはら)氏、紫式部は藤原氏一族の出とあります。
“清原氏”の出で、“少納言(大臣クラスの官位)”の人物とゆかりがあり、「清少納言」とした説が有力です。
紫式部は少し複雑で、著書『源氏物語』のヒロイン“紫の上(むらさきのうえ)”に因み「紫」にし、“式部(宮中の儀礼や人事を司る部署)”の人物とゆかりがあり、「紫式部」としたそうです。
清少納言も紫式部も当然本名はありますが、記録されず永遠の謎です。
男性であれば比較的本名も記録されますが、女性は皇女や幕府将軍の娘でも記録されず、ただ“だれそれの娘”とのみ記録されます。

平安時代のエッセイ『蜻蛉(かげろう)日記』の著者は、「藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母」とのみ記録され、本名は不明です。
一夫多妻の時代、存在自体記録されない子どもは多数います。
天皇や幕府将軍の子に生まれたとしても、記録されるとは限りません。“紫式部”や“清少納言”は女房名を歴史に刻んだ、偉大な女流作家と言えます。