久留倍官衛(くるべかんが)遺跡公園(三重県四日市市)
- 弓長金参
- 2023年5月13日
- 読了時間: 2分
更新日:2024年8月17日
現在、四日市市内の一地区名・久留倍にある官衛の遺跡です。
官衛とは役所のことです。飛鳥時代から久留倍の地は伊勢国(いせのくに)朝明(あさけ)郡の行政区に属し、その郡役所跡になります。

飛鳥から奈良時代(7世紀後半~8世紀後半)まで、この官衛は朝明郡の郡役所として機能しました。
古文書を調べると、壬申の乱(672)のときの大海人皇子(のちの天武天皇)や、聖武天皇の東国行幸(ぎょうこう:皇族が各地を視察に訪れること)(740)で、この官衛を道中の休息、宿泊施設として利用しています。

壁で方形に囲み、メインの建屋・正殿(せいでん)と、向かって左右に長方形の建屋・脇殿(わきでん)があり、正殿の裏手に備品倉庫を備えた施設です。
国司(こくし)など伊勢国全体を統括(とうかつ)する役人は都から派遣しますが、この郡役所の役人は、地元の有力者など現地採用がメインでした。

復元した正門
平安時代(9世紀)以降、この郡役所の機能は衰退しました。
平安時代に入ると、藤原氏を中心に都在住の貴族が実権を握ります。
各貴族は自家の私有地・荘園(しょうえん)を各地に開拓しました。荘園は治外法権で、中央政府の政令対象外です。

荘園の普及により、飛鳥から奈良時代にかけ、時の為政者(いせいしゃ)たちが目指した日本全土を天皇が直接支配する「律令(りつりょう)国家」の前提が覆(くつがえ)りました。
それに付随し、朝明郡を管理したこの官衛も、郡役所としての機能が薄れ、地元から都に納める農作物などの保管・管理基地へと役割が変遷します。
郡役所の建屋に替わり、農作物などを保管する「正倉院(しょうそういん)」を何棟も造りました。

奈良時代に郡役所の傍にあった正倉院群に加え、平安時代には郡役所の東に新たな正倉院群を建設しています。
これら正倉院を火災から守るため、周囲を囲む堀の跡も発掘されました。

官衛東の正倉院跡
因みにこの久留倍官衛遺跡の「遺跡」以外に、「遺物(いぶつ)」と「遺構(いこう)」という言葉もあります。
遺物は刀や皿など“動産”の物品を指し、遺構は建屋や堀など“不動産”を指します。それらを含めたものは、遺跡と表記しています。