Chinese Birthday──漢字ができるまで──
- 弓長金参
- 2023年7月29日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年12月5日
漢字は“殷王朝”とも呼ぶ「商王朝」から本格的に使われました。

亀の甲羅や動物の骨に刻んだ「甲骨文字」がその原型です。紀元前17世紀にまで遡(さかのぼ)ります。
漢字は商王朝の人びとが考案したのでしょうか。
四川省あたりに栄えた「三星堆(さんせいたい)」文化で、漢字のプロトタイプが発見されました。今から2000年以上前に栄え、忽然と姿を消した中華文明のひとつです。

発掘した遺物に、星形や波形などの “記号”が見つかっています。単なる模様ではなく、意思疎通を図る「文字」と考えられますが、明確には分かりません。
記号による意思疎通の利便性に着目した黄河中流の文明、いわゆる「黄河文明」の人びとがそれを取り入れ、商王朝時代に本格的に発展したものが甲骨文字との説があります。
現在も使用する「漢字(Chinese character)」は、甲骨文字が発展、省略化したものです。
文字は物理的、時間的に離れた他者に、意思を伝達できる便利な道具です。
反面、商王朝の人びと自身は文盲、というより甲骨文字の使用を禁止されました。
商王朝では、戦の日取りはもちろん、日常の些細なことまで万事天の神にお伺いの占いを立て、その結果に従う「神政政治(しんせいせいじ)」の政権です。

甲骨文字は天の神と交信する“神聖な呪符”として、王族や神官など限られた人間以外の使用を禁止しました。
占いには生贄(いけにえ)をささげます。牛や羊、馬など家畜もありますが、戦でとらえた捕虜も生贄にささげました。特に商王朝西部に住んだ「羌族(きょうぞく)」をよく生贄にしました。王朝内にいる数多の奴隷も同様です。
日々、なかまが生贄にされるなか、商王朝の西にあった「周国」が反乱を起こすと、王朝内の奴隷や捕虜は周国になびき、商王朝は一気に瓦解しました。

周国が商王朝に替わり、中華文明の王として紀元前11世紀に「周王朝」を建国します。この時代から甲骨文字は本格的に普及します。
周王朝は商王朝ほど占いを重視せず、甲骨文字自体も神聖視しません。
一方、文字としての利便性に注目し、各地を統治する諸侯との連絡用に、積極的に甲骨文字を活用しました。
特に周王が諸侯へ贈る青銅器“鼎(かなえ)”に、受け取り主の諸侯の名前や、鼎を贈る経緯などを内側に刻印しました。刻印した文字を「金文(きんぶん)」と言います。

金文を基に各地の諸侯も積極的に甲骨文字を活用し、大陸全土で文字が普及しました。
広大な大陸に手書きで伝える文字のため、各地の漢字はエリアごとに形状が違い、不統一でした。東の人が西に行けば、同じ漢字でもまったく読めないことがよくあります。

不統一だった漢字が、統一されるタイミングが訪れます。始皇帝による中国統一です。
各地で不統一だった度量衡(どりょうこう)と同じく、統一前の秦が従来から使用していた “秦エリアの漢字” を基準に、漢字も統一しました。

しかし、秦王朝の統一天下はわずか15年です。しかも後半の5年は、全国規模の反乱で王朝は混乱を極めました。
実際に漢字を統一したのは、次の「前漢時代」(紀元前206~紀元8年)です。本来、秦王朝が統一しようとした文字“秦字”は、統一された形で普及した漢王朝の文字“漢字”として、広く認識されました。漢字を統一しようとしたにも関わらず、秦王朝は割を食った気がします。
一方、秦王朝も永遠に歴史に名が刻まれた面があります。
秦のピンイン表記は「Qin」です。ごく短期間の統一王朝の時期でも、積極的に周辺諸国へ使者を派遣し、東西文明交流のきっかけを作りました。

使者を通じて秦王朝の名は各地に伝わりました。伝播する過程で秦の “Qin”が “Chin” に変わり、ヨーロッパまで伝わりました。後にヨーロッパ人が漠然と中国大陸を指す「China」の語源は、秦の“Qin”との説があります。
統一王朝としてはごく短期間で滅亡した秦王朝ですが、中国大陸の呼称として永遠に名を残しました。


