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1000年生き続けた「破天荒」:破天荒の語源

  • 執筆者の写真: 弓長金参
    弓長金参
  • 2022年5月4日
  • 読了時間: 3分

更新日:4月29日

破天荒(はてんこう)」という言葉があります。

 字面から天を破壊し、荒れ果てるとイメージし、よく「傍若無人」と誤用されます。本来の意味は前人未踏の偉業の達成です。それにはこんなエピソードがあります。

傍若無人

 中国唐の時代、官吏登用試験「科挙」が本格的に始まります。“50歳で合格ならまだ若い”と言われた、極めて難度の高い試験です。

 合格者が出ない荊州(けいしゅう)南部(現在の湖北省あたり)は、未開の地との揶揄(やゆ)から「天荒(てんこう)」と呼ばれました。

 850年、寒門(かんもん)出身の「劉蛻(りゅうぜい)」が荊州南部で初めて科挙に合格。荊州の長官は“天荒を破ったすごいヤツ”と称え、「破天荒」と呼びました。

劉蛻

 破天荒の三文字を文法的に解説します。

 中国語は英語と類似し、動詞+目的語の語順になります。動詞“(る)”+目的語“天荒”から、天荒(を)破(る)で「破天荒」です。

 破天荒と褒められ銭70万の報奨金も賜りますが、劉蛻は謝絶します。清廉な人物です。

 劉蛻が生きたのは、唐王朝が滅亡まで残り50年ほどの“晩唐(ばんとう)”の時代。

 シルクロードの中心首都・長安はじめ、唐王朝は周辺諸国から人びとが集まる、華やかな国際社会を形成しました。

 日本からも阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)の留学生、空海(くうかい)、最澄(さいちょう)の留学僧が青雲の志をいだき、命がけで遣唐使船に乗り、大海原を越え、日本文化の発展に大いに寄与しました。

遣唐使

 それから半世紀以上の歳月が流れます。

 中央アジアに大きくせり出した広大な領土の統治に、唐王朝は「節度使(せつどし)」という地方長官を辺境地域に配置します。

 節度使は外国からの侵入をスピーディに鎮圧するため、強い軍事力を持ちました。その節度使の位は親子で世襲され、管轄エリアを代々統治します。

節度使

 遣唐使華やかなころをピークに、皇帝に近侍する宦官(かんがん)が権力を握るなどし、首都長安の中央政府は影響力を低下しました。

 並行して地方を一族で代々管轄する節度使の権限が拡大、半独立の状態となります。

 そんな時代に、劉蛻は官途につきました。

 863年権力者の息子を弾劾(だんがい)し、地方に左遷されたと記録があります。それ以降、劉蛻の名はありません。政府の腐敗と節度使の独立。清廉な劉蛻は唐王朝から疎外されました。


 唐王朝は正式に907年まで続きますが、残り30年ほどは全国規模の反乱が勃発。皇帝は権力者の傀儡(かいらい)で、長安を中心とした“一地方勢力”に成り下がります。

 各地で節度使出身の権力者が皇帝や王を自称し、独立を宣言。

 長安、洛陽の中央エリアを5つの王朝が興亡、それ以外のエリアを10の王朝が支配する「五代十国(ごだいじっこく)」の戦乱の世に突入します。

五代十国時代

 科挙の合格よりも乱世を終わらせる人物が必要な時代です。清廉なインテリ・劉蛻に出番はありません。

 劉蛻の生没年は不明です。科挙に合格した850年に20~30代なら、絢爛豪華な唐王朝の衰退とともに人生を歩みます。長生きしていれば、王朝滅亡を目にしたことでしょう。

 青年時代すべてをささげ、合格した科挙試験。皮肉にも、自ら祖国・唐王朝の瓦解を目撃する生涯を送りました。


 劉蛻は歴史の波に消えました。人びとは忘れ去ったのでしょうか。

劉蛻の故郷

 1000年経った19世紀の清(しん)王朝末期、湖南省長沙市出身の歴史家の生家が「劉蛻宅跡」と記録にあります。

 伝えられる劉蛻の故郷は長沙市です。幾度も王朝が興亡するなか、長沙市に伝えられた劉蛻宅跡は1000年間語り継がれました。地元の誇り「破天荒」劉蛻は、ひっそりと生き続けていたのです。

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